2008年12月31日水曜日

自動車教習 兼 シカゴ観光 第4日目

 午前6時にチェックアウトして、地下鉄で教習所へ。最後の練習を3時間する。途中で、受験生2人を拾って試験所へ。初めて教官以外の人を乗せて運転したので、緊張する。1人なぜか途中で降りる。はじめ、シカゴ北試験所へ行ったが、非常に混んでいたため、シカゴ西試験場へ。受験生が100人位待っていて、2時間半待ちだといわれたが、筆記試験をすでに受けているため、手続きと支払いに30分程度、試験コースを走ってから車列に並び30分程度待った。直前まで教官が同乗し、話し相手になってくれる。

 教官はメキシコ移民2世だそうで、差別に話題を持って行くと突然饒舌になる。ループの連邦政府機関周辺を歩いていると、疑いの目で見られるとか、カーディーラーに行っても自分から尋ねない限り説明をしてもらえないとか(教習車は2009年のトヨタカローラだった)。試験所にも人種差別をする白人がいて、英語能力が低いほど差別がひどくなるという。友人(2世)が手続きをした際、移民だと決めつけられ、アメリカ人だと分かると今度は本来必要のない書類の提示を求められたとか、英語がしゃべれない受験生の前で「こいつらここで何やってんだ」と言ったとか。アメリカのメキシコ系人コミュニティーは非常に大きいので、日常生活は全てスペイン語で出来るそうだ。そのために、英語教育をあまり重視しないらしい。教官自身、小学校教育をスペイン語の教科書で受けたため、英語に訛りがあり、劣等感を感じることがあるという。僕自身のイギリス短期留学経験と比較しても、ここでは言い間違えたときに受けるストレスが少ない。そのため、お金を払って学ぶか、自分で努力しない限り、何年住んでも英語は上達しないだろうと思う。

 試験官は黒人女性だった。第1印象は0.3秒で決まるそうだが、彼女が僕を始めてみた瞬間、鏡に向かって鼻をいじっていたのがいけなかったらしい。高圧的な態度で、最後(駐車試験)には「早くしろ。あなたはとても不快だから私は降りたいんだ。」と怒鳴る始末だった。左折で左右を確認しなかった、停止標識で完全に停止しなかった、後進L字ターン中に反対車線に車が入って来たとき停止しなかった、制限速度を5マイル時以上オーバーしたなどで減点された。最後に駐車場で曲がる際ウインカーを出さなかったため、「あなたは本来免許を取るべきじゃないが、今日持って帰りなさい」と言われる。有難うと言うと、「今、有難うと言うべきだと言おうとした」と返ってくる。おかげで、証明写真はとてもひどい顔に写ってしまった。

 もう一人が受験中に帰りのバスの出発時間を過ぎる。インドからの移民で、車通勤しているらしいのだが、落ちてしまう。免許取得直後に運転すると危ないからと帰りは、教官が運転。携帯を借りて、シャンペーンへのシャトルバスの予約を試みるが冬期休暇中。ブルーラインの駅で降ろしてもらう。ジャクソンで乗り換えて、5時半頃ユニオンステーションへ。8時にシャンペーン行きがあったが、満席。立席乗車券というものはないらしい。ネットでオヘア空港からのシャトルバスの情報を入手しておいたが、3社中1社はすでに出発、1社はファックスのみで予約受付、残りの1社に電話をかけてみるが、シャンペーン行きはもうやっていないという。グレイハウンドターミナルまであるき、チケットを返金してもらう。試しに聞いてみるが、既に便がない。結局、昨日まで泊っていたホステルのドミトリーに泊まる。宿で、一番早いアムトラックを予約する。

2008年12月30日火曜日

自動車教習 兼 シカゴ観光 第3日目

 朝4時半、ロビーに出て窓際のテーブルを陣取る。ソファーに寝転んでラップトップを操っている人が二人。5時ごろに引き上げて行く。5時半頃日本人と思しき女の子がチェックアウトする。30分ソファに座っていたが、6時頃迎えにきたタクシーにスーツケースを積んで出て行く。

 8時にホステルを出発し、教習所へ。今日も駅前の駐車場で待っていてくれる。フリーウェイに入る。試験所が休みなので、会場で練習するのだそうだ。40分くらい走って会場へ到着。模擬試験でウインカーとワイパー、アクセルとブレーキを間違える。実際の試験コースを走って、坂道駐車や後進L字カーブ、車庫入れの練習を繰り返す。余計なことを言わず、試験官の指図どおりに動けと忠告される。ループを走ってから帰る。

 午後、レッドラインのモンローで降りて、ホットドックを買ってから、ピンクラインでシアーズタワー前へ。観光バスに乗り混む。幸か不幸か、二階建てバスの2階に座る。非常に寒い。ガイドのおばさんが代役で、手袋をしていないので貸してあげる。自然史博物館前で下車。進化のセクションを2時間とアメリカ先住民の歴史のセクションを30分かけて観た。無料送迎バスと地下鉄を乗り継いで宿へ帰る。

2008年12月29日月曜日

自動車教習 兼 シカゴ観光 第2日目

  朝8時、ホステルを出る。昨日と打って変わって、寒い。アーバナ・シャンペーンよりも寒い。駅に向かって歩いていくと、路地の突き当たりにミシガン湖が見えた。地下鉄で教習所へ。駅前でインストラクターが待っていてくれる。昨日のおさらいをしてから、住宅地に入りひたすら、路肩寄せと後進L字カーブの練習をする。最後に市街地を走って終わり。車線の真ん中を一定速度で走れと注意された。

 12時半、観光するつもりでいたのだが、ガイドブックをホステルに忘れて来たことに気づく。レッド・ラインで一番大きそうなジャクソンという駅で降りる。観光案内所はなかったので、駅員に地図を貰う。親切な方たちで、お勧めのクラブハウスを教えてもらったりする。地図を頼りに、都市の中心部(その名もループ)を囲む高架の外側を反対向きに歩いてみることにする。ジャクソンから北へ歩いて行くとミシガン湖へ出た。人口の入り江で、西側の波止場近くに流氷が溜まっている。はるか東の湖岸にプラネタリウムが見える。流氷のところまで西に歩いてから、南へ戻ると、ミレニアム・パークが見えてくる。野外コンサートホールを中心とした一種のアミューズメントパークだ。これを抜けると、観光案内所が入っているシカゴ文化センターの前へ出る。よく見かけたトローリー風観光バスの乗り場を教えてもらい、路線バスでコーミック・トリビューン・フリーダム・ミュージーアムまで行く。スタッフに全ての巡回観光スポットが開いてるか聞いてみると、日曜日なので閉館が早い。その代わり、チケットを2日間有効にするという答えが返ってくる。シカゴ川北部を周回し、シアーズタワー前で下車する。迷ったが登らずに地下鉄へ。

 15時、スーパーマーケットの前で途中下車し、食料を調達、渡米初のヘアカットをしてから宿へ戻る。

2008年12月28日日曜日

自動車教習 兼 シカゴ観光 第1日目

 朝6時過ぎに部屋を出て、イリノイ・ターミナルへ向かう。渡米以来最も暖かい日だ。ネットで買ったチケットを回収し、バスへ乗り込む。約2時間半でグレイハウンドターミナルに到着。シカゴに来たのは生まれて初めてだ。ユニオンステーションまで歩き、地下鉄・バスの乗継割引カード(Transit Card)を買う。通常距離に無関係に2ドルだが、2時間以内に乗り継ぐと1回目が25セント、2回目無料になる。地下鉄からバスに乗り継ぐ場合も適用される。ちなみに、初乗りも1.75ドルになる(Transit Cardもバスは$1.75)シカゴカードというのもあって、ホームページにはユニオンステーションで両方購入可能と書かれているのだが、実際に購入可能なのは乗継割引カードだけだった。シカゴ美術館(The Art Institute of Chicago)まで歩く。時間が無いので、絵画のフロア(3階)へエレベーターで上り、奥に向かって歩いて行くと、Georges Seuratの"A Sunday on La Grande Jatte"が目に飛び込んでくる。それ以降も、『名画を見る眼』で紹介されているゴッホやHenri de Toulouse-Lautrecの実物を鑑賞することが出来た。

 11時、地下鉄に乗って教習所へ。間違ったバスに乗り換えてしまい、4ブロック歩く。30分遅刻したが、許してくれる。5分程度、エンジンの掛け方やレバー操作の説明を受けてから、10分ほど実演を見て、実習開始。住宅地と市街地で右折・左折の練習を3時間行った。危なくなると、助手席に座った教官が、ブレーキを踏んだり、ハンドルを取ったりして助けてくれる。途中、オバマ次期大統領の自宅前を通過、隣りのモスクとの間にパトカーが3台位泊っている。現在、ハワイで休養中なので、警備が手薄なのだという。

 15時半、再びシカゴ美術館へ。入館券は同日であれば何回でも入場可能である。1, 2階をざっと見た。


 17時、地下鉄でホステルへ。予約確認に時間がかかる。ホステルワールドで見つけたのだが、初日はシングルが開いてなかったので、続く2日のみオンライン予約。初日は電話予約したのがいけなかったらしい。シングルルームを予約したのだが、ベッド以外何もない部屋だったので、不満の顔をしていると、ドミトリーへの変更を勧めてくれた。しかし、部屋を変更すると、マネージャーに差額を返金できないと言われたという。結局、シングルに泊まることにした。

2008年12月27日土曜日

DMV筆記試験

 朝8時、運転免許試験施設へ行く。本当は、連休初日に受けたかったが、イブとクリスマスは休みであった。試験勉強は、シャンペーン市立図書館で借りたDVDを2本見ただけである。キャンパスからバスで20分ほど、僕以外にも4, 5人受験生が来ている。筆記試験を受けたい旨を告げると、パスポート、ソーシャルセキュリティーカード(月曜日に届いた)、住所が印刷された郵便物の提示を求められ、視力検査される。視力検査といっても、一定の大きさの数字が読めればパスである。20ドル払ったあと、復習のため、教科書を借りてパラパラめくってから、いざ試験。10台くらい並んだタッチパネル式コンピューターの内1台の前に座らせられる。生年月日で本人確認してから、4択問題、正誤問題を解いていく。33問出題され、28問正解した時点で終了する。ほとんどの問題は、迷わずに答えられる程度の難易度だ。答えたくない問題は、飛ばすことができ、最後まで回答した時点で正解数が28に達していなければ、同じ問題が再出題される。僕は、迷った問題はすべて飛ばしたので、正答率100%で合格することが出来た。筆記試験に合格すると、日本の仮免許と同じように、免許を持っている成人同伴で運転の練習をするための許可書がその場で交付される。次に、実技試験を受けて合格すれば、免許が交付される。実技試験は同日に受けることも可能らしい。

 23日にボスがまだ居たメンバーに昼御飯をおごってくれた際、アメリカの免許制度は若いころから日常的に運転し続けることを前提にしていること、運転技術の未熟な外国人は白眼視されることを教えてもらった(吹き込まれた)。ボスは、自分が貸す車で練習し、免許を取って、車を買ってから訓練しろと言っていた。しかし、短期間で一定レベルの運転技術に到達するため、教習所に行くことにした。この辺りに教習所は2つしかなく、両方とも休みらしい。年が明けるまでに免許を取ってしまいたいので、シカゴの教習所に手当たりしだい電話をかけて見る。2か所開いているところが見つかり、1か所が明日からの教習を受け付けてくれることになった。僕が調べた限り、教習所には10代向けと大人向けの2コースがある。10代向けの方はよく知らないが、大人向けコースは12時間が標準で、事前仮免許を取得しなくてはならない。料金は、1時間50ドル位が相場のようだ。バスのチケットを買い、ホテルを3泊予約する。

 午後は、久しぶりに勉強し、夕方研究室へ。先輩ポスドクに、いろいろ教えてもらってから、体育館へ。

 

2008年12月16日火曜日

図書館

 実験試料を急きょ合成することになった。SciFinderで売っているところを見つけたのだが、納期1か月(これから合成する)であることが判明した。といっても、出発物質さえ買えばALと同じ反応経路で合成できるはずである。ちなみに、有機化学備品室にない試薬や実験器具の購入は、学部単位で1元管理されている。我々は、専用ホームページにログインし、メーカーと商品名、グラント番号、カタログ価格、希望納期を入力するだけでよい。僕が行った日本の大学院では、学生・スタッフそれぞれが代理店へ直接注文し、品物と一緒に受け取った伝票(納品書、請求書、領収書)を秘書さんやグラントを管理しているスタッフに渡すというシステムだった。

 ALから次にやるべき実験について相談を受ける。午後も一緒にNMRを取りに行ったり、NMRの結果をもとに反応条件ついて話し合ったりして、丸一日付き合う。普通の定常IR吸収スペクトルを取ることになったので、装置や試料準備を教えて貰い、僕の実験試料も一緒に測ってもらう。ALの試料液体なのだが、どうしても弱いピークを検出する必要があったので、他研究室からスペーサーを調達する。

 6時から図書館ワークショップへ参加する。僕が借りたアパートは、正確には大学院生とスタッフのゲストハウスで、遠足やパーティーを頻繁に主宰している。参加人数が少ないのでキャンセルするかも知れないという事前連絡があったが、はたして参加者は僕一人であった。司書のオネーさんをはさんで、アパートスタッフで大学院生のオネーさんと僕が座り、彼女の出前講義を聞いた。この大学は、全米で2番目に大きな大学図書館を持っているそうだ。但し、1個の巨大な図書館があるのではなく、日本の大学でもそうだが、学部や学科ごとの図書館や遠隔地の書庫に分散している。その代わり、オンラインサービスが充実していて、全ての蔵書を一括検索できるだけでなく、研究室まで無料で配達して貰うことができる。

2008年12月13日土曜日

クリスマスパーティー

 自転車のタイヤがパンクしたので、歩いて学校へ。前日紹介された企業へ電話する。メールを出しておいたのだが、技術的相談は電話のみらしい。目的にかなう商品があるそうなので、早速データシートを送ってもらう。ところが、数時間後に今度はメールで該当商品無しとの回答を受け取る。電気室のスタッフが、冷却機を見に来てくれる。単に電源コードがないだけなのだが、メーカーから取り寄せるといって帰ってゆく。ところが、こちらも数時間後に最小取引額100ドルとの回答が来る。電源コード1本に100ドルはばかげている。ALに分光実験の手順を教えてもらう。非線形光学効果を利用して特定の環境にある分子の定常スペクトルを選択的に観測する分光法だ。最新のフェムト秒パルスレーザーを使っているし、セットアップが高度な技術や知識がなくても使えるように半製品化されている。それに設計も巧妙である。最も古株のポスドクが作ったのだそうだ。実験室に見学者が訪れる。なんと日本人だった。

 昼休み、パンクした自転車を修理に持って行く。自転車屋の隣の中華屋が超大盛りで安い。

 午後、ALについてNMR測定に行く。僕が大学院生のときは、合成の度に技官に測ってもらっていたが、ここでは全員自分で測定している。初心者向けのチュートリアルがeラーニングと実習として制度化されている。ただしeラーニングは、NMR室内の専用PCを使う。16時より、某著名研究者の講演を聞きに行く。基礎研究の話ではなく、時間分解分光の技術を同位体比分析へ応用する話。この研究をもとに大学院生が起業したらしい。18時からは学部のクリスマスパーティー。参加者は100名程度で、ほとんどが大学院生だが、スタッフや教授クラスもちらほら見える。頑張って、日本人を一人見つける。大学院2年生で滞米6年目のNO君だ。最後の4人になるまで話し込む。残りの2人は、ALと同じ研究室のポスドクだった。

2008年12月11日木曜日

研究室めぐり

 学校前、NHKラジオの「実践ビジネス英語」をインターネットで聞いてみる。数か月ぶりなので、能力が悲しいぐらい下がっていることを実感する。オンラインで買ったテキストがなぜか印刷できない。

 朝9時から1年生のYHと共にALの初カラムクロマトグラフィーを手伝う。ただし、2人とも10時から用事があって立ち去る。爆薬の研究の試料作りのために、他研究室へ相談に行ったところ、別の研究室を紹介される。その研究室へ行ったところ、企業を紹介される。自分の研究室に戻ると、試薬が来ていた。

 午後、急きょALの助けを借りて超高速分光実験用試料を調整する。あいにく電子上皿天秤が壊れたので、直示天秤を使う。高校以来である。壊れた電子上皿天秤を電気室へ持って行き、機械室で冷却機用の部品を加工してもらう。

 6時に学校を出て、体育館に行く。アパートから徒歩圏内に別館があることを知る。

2008年12月10日水曜日

Asian American Culture Center

 朝一でボスに金曜日のお礼を言い、日本からのお土産を渡す。早々に辞退し、ウェットルームの備品調達のため備品室へ。前回分液ロートを無駄に買ってしまったので、おそるおそる返品出来るか聞いてみると簡単に応じてくれた。ガラス器具からSwagelokまでそろっている。但し、駒込ピペットは見当たらない。実験器具以外に試薬も数百種類在庫がある。ウェットルームに戻ると、合成担当の大学院生ALが来ている。前回の精製で不純物が混入したことを説明すると、自分で再精製するという。溶出液を変えたいというので、TLCで選定してもらう。

 昼休み、郵便局から日本宛てのEMIを出し、学生会館の地下で昼食を取る。

 午後、ロータリーエバポレーターをアスピレーターで減圧し、水道水で冷却していたので、ダイアフラムポンプを注文し、古い冷却機を拾ってくる。冷却機は電源コードがなく、冷媒の接続口がSwagelokだったので、再び備品室と電気室へ。コードの方は、担当者が出張してくれることになる。居室に戻ると、大学院1年の中国人留学生YHが暇そうだった。カラムクロマトグラフィーの経験があるということだったので、ALの実験を見に来てもらうことにする。ALがやる気になる。デスクに戻って、翌日の爆薬研究の打ち合わせの準備をし、帰る。

 体育館へ行き、10分で筋トレを終わらせる。Asian American Culture Center主催のアメリカ文化へなじむためのワークショップへ出席。参加者は20人程度で、ほとんどアジア系1世、2世。それと、英語教師1人。滞米1年以上の人がほとんどで、1か月以下は僕だけだった。異国生活には、3つの段階(ハネムーン、カルチャーショック、受容)があること、それぞれの段階を乗り越えるにはどうしたら良いかなどが話題になった。ディスカッション形式だが、あまり盛り上がらなかった。

 部屋で遅い夕食を取る。

2008年12月8日月曜日

日曜日

 前日買い損なったものをAmazon.comで注文する。机やイス、ディスプレイ、炊飯器、コーヒーメーカーといったある程度のサイズのものは、値段がウォルマートと大差なく、しかも送料無料のものがある。

 午後、サンドイッチを持って大学へ行く。誰もいない。僕は自分の居室の鍵を持っていない(笑)ので、他人の部屋に入り込み昼食を取る。金曜日にやったフラッシュ・カラムクロマトグラフィーでは、不純物が混入したことが分かる。汚染源は、試験管か洗浄瓶の可能性が高い。ウエットルームに購入が必要な備品のリストアップし、ウェッブページとカタログで商品を選定する。この研究室の試薬は、Fisher ScienceとSigma-Aldrich, Acros Organicsの3社のものがほとんどだ。

 夕方、同室の大学院生が2‐3人来る。実家からSkypeへ留守電が入っていたので、掛けてみる。

 ちなみにSkypeの月間契約「世界中どこでもプラン」にはいると、30カ国ぐらいの固定電話と5カ国ぐらいの携帯電話へかけ放題になるだけでなく、5カ国ぐらいから3つの電話番号(オンライン番号)を取得することが出来る。日本の場合、フュージョン・コミュニケーションズが提供する050から始まる番号を取得でき、国内の固定電話から3分11円位でつながる。オンライン番号への電話は、Skypeで受信できるほか、最大3つの固定・携帯電話へ同時転送できるので、日本のオンライン番号へかかってきた電話をアメリカの固定電話や携帯で受けることもできる。転送料は無料で、アメリカの場合固定・携帯電話への通話料もともに無料である。さらに、電話から自分のSkype経由で電話をかけるための電話番号(Skype to Go)も取得できるので、携帯電話の特定電話番号かけ放題サービスと組み合わせると、日本の固定電話へかけ放題の携帯電話が出来るはずなのだが、まだ試みていない。

 電話は、母からであった。京都にいるときは、電話が掛かってきたことなどなかったが、これからは頻繁に掛けるなどと言っている。確かに、通話料やつながりやすさの点で京都にいる時よりもかけやすいだろう。京都にいる時もYahoo!BBのIP番号を教えてあったが、昼間自室にいることはまれだった。

 大学院生が、水曜日に化学教室の飲み会があることを教えてくれる。雑貨屋さんによって帰宅。

2008年12月7日日曜日

ウォルマート

 この町に来てから1週間が経過した。

 身の回りに両面印刷できるプリンタがないことと、コピー機の数が少なく性能が悪い(おそらく拡大縮小や両面コピーはできない)ことから、自動両面印刷機能が付いたオールインワン・プリンタを購入した。セットアップをしてから、Urbana中央郵便局へ行く。郵便局の隣のスーパーマーケットで買い出しをするためにスーツケースを持って行く。

 バスに乗り込みお金($1)を払おうとすると、運転手のおばさんがi-cardで無料になることを教えてくれる。キャンパス外でも無料になるらしい。6分程度でLincoln Squareというショッピングモールへ到着。昼食のハンバーガーを調達してから、Urbana中央郵便局行きのバスへ乗り換える。郵便局行きというより、隣のウォルマートというスーパーマーケット行きで、平日よりも土曜日の方が本数が多い。この町では、土曜日に買い出しをすることになっているのだろう。

 まずは郵便局へ行って日本からのEMSを受け取る。アパートの宅配ボックスに入らない大きさではなかったので、クレームをつけると、サインが必要なのだという。日本からここまで2日間で運ばれたのに、受け取りに2日間かかるのはばかげている。

 ウォルマートで、日用品と食料品をトランク一杯買う。歯ブラシ、掛け布団、食器、包丁、フライパン、自転車用ヘルメット、コピー用紙、スリッパ、コーンフレーク、冷凍食品、調味料、モップ、手袋など。コーナーデスクや電子レンジも安いが、残念ながら運ぶ手段がない。会計後、持ち切れないことが判明したので、ゴミ箱2個を返品する。

 自室で初めての夕食を取る。

金夕食

 日本からのEMSを宅配ボックスへ入れてもらうように頼んでから大学へ。新しいDS-2019のコピーを事務に提出し、大学院生に爆薬の研究に使うレーザーの使い方を教えてもらう。後は有機合成経路作りをする。郵便局より、電話でEMSを取りに来てくれと言われる。

 午後、有機合成を担当している学生を捕まえた。カラムクロマト・グラフィーをやったことがないそうなので、一緒にサンプル精製する。カラムとシリカゲルを有機系の実験室から借りてきてもらって実験を始めると、いろいろと必要なものがないことに気づく。早速、備品室で調達。ショッピングカートが欲しいと言ったら、冗談だと思われる。シリカゲルを充填してみて、フラッシュカラムクロマトグラフィー用であることに気づく。カラムもフラッシュカラムクロマトグラフィー用だし、ドラフトに圧縮空気が引いてあるので、この国ではフラッシュ・カラムクロマトグラフィーがディフォルトなのかもしれない。

 午後6時にボスのご自宅へお邪魔する。奥さん、息子さんと共に中華料理バイキングへ。息子さんは、中学生。日本米が好きで、テコンドーが強く、確率の勉強をしているそうだ。ボスからも、景気の研究費に対する影響からおいしいコーヒーの入れ方まで様々なことを教えていただく。

 帰宅すると、ドアの前にAmazon.comで注文したプリンタが置かれている。

2008年12月6日土曜日

打ち合わせ

 時差ボケのおかげで朝とは言えない時間に目が覚めたので、起きて前日渡された論文を読む。

 8時半頃出勤後、NetIDのパスワードが設定できない問題を解決してもらうために、コンピューターセンターへ。3分で解決する。研究室に戻って、有機合成経路をまとめる。

 昼休み、郵便局へ。日本への国際郵便は、全て航空便になり、航空便には3種類(First class, express, priority)あるそうだ。最も遅いサービス(priority)でも、本1冊で25ドルである。Expressメールは専用封筒に入れて送ると一律約26ドルなるそうなので、封筒の中身を移す。

 NetIDを使った認証が出来るようになったので、大学がサイトライセンスを持っているSciFinderとChem Drawをインストール。Chem Drawのパッケージに、Chem 3Dが含まれていることが判明した。Chem 3Dは、MOPACのインターフェースになるので、SYBYLが不要となった。3時から爆薬の研究の打ち合わせ。実験装置は、部品を修理に出しているそうなので、サンプル作りから始める。作り方は、3種類考案されており、僕はその内2種類を担当する。

 4時から、研究室セミナー。中国からのポスドクが、本国での面接のための発表練習をする。大学院1年生2人と初めて顔を合わせる。

 6時に帰宅。日本からのEMSの不在連絡票を受け取る。屋内運動場へ行き入会する。給料からの天引きで月約$30ドル。バスケットボール、バレーボール、スクワッシュ、ロッククライミングコート、ジョギングなどの設備があり、肝心のウエイト・マシンも50台くらいある。速く肩を治して思う存分使いたい。

2008年12月5日金曜日

i-card

 職員証(i-card)を作りに行く。学生証と色が違うだけで、図書館利用証、ゲストハウスの鍵、構内バスのフリーパス、デビットカードを兼ねている。10:30から、国際課で面談。DS-2019の発効日から1か月(?)以内に面談を受けなくてはならないそうで、つじつま合わせのために新しいDS-2019を発行してくれる。医療保険に加入したことを確認され、外国人向けパンフレット一式を貰う。

 研究室に戻ると、ボスに論文の束を渡され、目を通して1時間後にオフィスに来いと言われる。爆薬の研究をさせられるらしい。研究動機を懇切丁寧に説明してくれる。4時から、招待講演がある。毎週、水曜日は物理化学らしい。ハーバード大学若手による共焦点蛍光顕微鏡のはなし。

 NetIDのパスワード設定が出来ない。オンライン認証できないので、サイトライセンスがあるソフトウエアのダウンロードや書庫内図書の請求が出来ない。

2008年12月4日木曜日

アイスバーン

 8時15分頃部屋を出る。歩道も含めて除雪をしていないところは、全てアイスバーン状態なので、自転車で走るのが怖い。居室に荷物を置いてから、化学図書室へ。SciFinderで合成を指示された化合物の文献検索をしようとすると、なんと4個中3個は売っていることが分かった。結局、僕の合成実験は中止となり、合成をしている学生のサポートだけすれば良いことになった。その学生は、シミュレーションもやるらしいので、専門家に相談に行き、SYBYLというソフトウエアのサイトライセンスがあることを知る。途中備品室なるものに寄り、ボールペン1本に至るまで支給されることを知る。

 午後は、事務室へ。ソーシャルセキュリティーナンバーが発行されるまでの一時整理番号(Temporary Control Number)や登録番号、ネットIDなどを取得したり、書類を書いたり、国際課での面談の予約を取ってもらったり、オンラインでオリエンテーションを受けたりする。その後、ナショナルシティバンクに駆け込んで小切手口座と預金口座を開く。居室に戻って、文献チェックをしてこの日は終了。学生会館で夕食をとって帰宅した。

2008年12月3日水曜日

初仕事

 初仕事だった。大学院でのティーチングアシスタントやリサーチアシスタントを除いて、自分の手でお金を稼ぐのは、本当に生まれて初めてだ。といっても、宿からアパートに移ったり、ソーシャルセキュリティーナンバーを申請に行ったり、文献探しをしたりしただけだ。

 朝8時半ごろ研究室へ行く。まだ誰も来ていないし、鍵も貰っていないので入れない。15分ほど時間を潰してから教授室へ挨拶に行くと、秘書室や事務室へ案内してくれる。事務室のポスドク係に明日の予約を取ってから、アパートの鍵を貰いにいく。それから引っ越し。といってもスーツケース2個を300m位引きずっただけだ。

 昼食をとってから、ソーシャルセキュリティー事務所に行く。自転車で出発したが、途中で道に迷いそうになったので、アムトラックの駅からバスに乗る。事務所に着くと、パスポート、ビザ、オファーレター以外にDS-2019が必要だといわれる。途方にくれていると、タクシーがやってきたので、アパートまで往復してもらう。手続き後、大学へ戻り、中央図書館へ。論文の追加資料が欲しいのだがどこが持っているのかはっきりしない。2人の司書に相談し、遠隔書庫にあることが判明する。まだオンライン請求用のIDを貰っていないので特別に便宜を図ってもらう。

 雑貨屋でとりあえず必要なものを買って、8:30ごろ帰宅。

2008年12月2日火曜日

初雪

 午前1時に目が覚めた。テレビで映画を見たり、書類をいじってから、5時ごろ散歩に出た。辺りは新雪に覆われていた。キャンパスは静まり返っている。アパートと研究棟を偵察し、通勤距離がわずか300mであることに満足する。宿に戻って朝食を取ってからうとうとする。

 午前11時頃、ボスからの電話で起こされる。こちらから掛けるはずだったが寝過してしまった。カフェで昼食を御馳走になってから、研究室へ。実験室見学と席決めの後、仕事をもらう。僕の研究はここでも有機合成から始まるらしい。日曜日なのに、学生が一人来ている。

 研究室を出た足で買い物に行く。必需品のキャップと手袋、日本で捨ててきたリュックサックや普段着など。夕食を取ってから、部屋で自転車を組み立てる。タイヤの空気を抜かずにチェックインしてしまったのだが、破裂していない。

2008年12月1日月曜日

片道航空券

 朝7時に夜行バスで新宿に到着した。研究室の片付けが長引いたので、H山に会う時間がなくなってしまった。約束をドタキャンしてしまったこと、今度いつ会えるか分からないこと、最近考え方の違いが問題化していることから、大変心残りである。実家に直行して、保険証を受け取ったり、転入届の委任状を書いたりする。

 家族の車で成田空港へ。事前に送っておいた預入手荷物の数と大きさにあきれられる。32kgのスーツケース2個と、分解した自転車1台である。ノースウエスト航空のウェッブページと電話案内によると、無料預入手荷物は23kg以下2個だが、32kg以下2個までは1個当たり50ドル、自転車は手荷物の数にかわらず150ドルの超過料金で済むと聞いていた。しかしチェックインカウンターに行って見ると、3個チェックインする場合、23kg超えの荷物の一つは3個目として計算されるので、超過重量9kgではなく全重量32kgに対して超過料金がかかるそうだ。困った顔をしていると、2つ目のスーツケースの重量が23kgだったことにしてくれた。ちなみに、自宅から空港までの輸送には空港ゆうパックを使った。普通のゆうパックと違ってサイズや重量に制限がないが、普通のゆうパックと同じ日数で届く。但しあまり使われないらしく、小さな郵便局から発送したら手続き方法の問い合わせに30分くらい時間がかかっていた。

 文庫+新書150冊読破まであと3冊なので、新書3冊を持って搭乗したが、丸山真男「日本の思想」が寝不足の状態で2‐3時間で読める本ではないことを知る。乗り継ぎのデトロイト空港にて、引越で出てきた中国元、台湾ドル、シンガポールドル、タイバーツ及びエジプトポンドを両替する。30人乗りくらいのプロペラ機(SF-340)でイリノイ州シャンペーンへ。

 6時前なのに真っ暗である。思ったほど寒くはない。大学院生が迎えに来てくれる。荷物を受け取り、彼の車に辛うじて積み込んで宿へ。南京出身ですでに結婚している。夕食に誘ってくれたが、土曜日の夜を潰すのは申し訳ないと言って辞退した。15分程度で学生会館に到着し、宿泊施設にチェックインした。

2008年11月13日木曜日

手術1回で肩鎖関節完全脱臼を治す方法

 10月の初め、自転車で転倒し、肩鎖関節を完全脱臼した。「肩鎖関節」は肩甲骨と鎖骨が3本の腱でつなぎあわされた部分で、肩や肘関節のように骨同士が擦りあわされているわけではない。その完全脱臼とは、3本の腱が切れた状態を表す。

 肩鎖関節が完全脱臼しても治療しない場合が多いそうだ。肩の運動には激しいスポーツをしない限り支障がはないし、力士や柔道家の中にも治療しない人がいるという。しかし鎖骨が1-2 cm上に突き出た状態になり、外見上のハンディキャップを負うことになる。しかも、肩甲骨は鎖骨を介してしか背骨(胸骨)とつながっていないため、体から筋肉を取り除くと腕が取れてしまう状態になるという。年をとって筋肉が衰えると後遺症が出そうだ。そこで僕は、治療を受けることにした。

 僕が救急車で運ばれた某大学付属病院とセカンドオピニオンを求めに行った某大学付属病院では、治療に2‐3か月かかると言われた。2回手術が必要で、まず鎖骨と肩甲骨の間を金属板で留め、切れた靭帯を縫い合わせる。6週間後、靭帯が修復された後に、再び手術を行ってプレートを取り除く。しかし僕は、仕事の都合上、1か月以内に軽作業が出来る状態になっていなければならない。これでは、間に合わない。そこで、1回の手術で済む治療法を探した。

 インターネットで調べてみると、肩鎖関節の治療法には様々あり、どれが最善の治療法なのか、統一見解がないという。問題は、靭帯が十分な強度に回復するまでの間、鎖骨を肩鎖関節へ固定する方法のようだ。放っておくと鎖骨が1-2cm上へ飛び出るほど強く、靭帯は引っ張られる。回復が十分でないと、靭帯は再び千切れたり、伸びたりする(亜脱臼)。しかし、固定に金属プレートやワイヤ(Phemister変法)を使うと靭帯の回復後再手術が必要となる。1回の手術で済む方法としては、腱(長掌筋腱)や人工靭帯で補強する方法があるそうだ。

 地元の整形外科専門クリニックに紹介していただいた病院で、望み通りの手術を受けることができた。人工靭帯を2本移植し、同時に切れた3本のうち2本の靭帯(烏口鎖骨靱帯)を縫い合わせる。手術後1週間は肩を完全固定、3週間は腕の運動範囲は90°以下に制限され、靭帯回復には3-4か月を要するが、3週間で日常の生活(と化学実験)に支障のない程度の腕の運動ができるようになり、再手術はない。人工靭帯は骨に貫通させるため、骨がくびれてくることはなく、穴の大きさは術後10年間の経過観察でほとんど変わりがないという。ただし今後は、チタンボタンが体に埋め込まれていることの証明書を携帯しないと、飛行機に乗れなくなるかもしれないし、MRI検査を受けられなくなるかもしれない。

 ちなみに手術時期は早ければ早いほど良く、脱臼後1カ月以上経つと、切れた靭帯をつなぎ合わせることができなくなるそうだ。実は僕も、5年以上前にウエイトトレーニングで同じ場所を故障したので、2本の内1本が修復不可能になっている可能性があった。その場合は、2本人工靭帯を移植する代わりに、人工靭帯1本(と1本修復)と腱の移植を行う計画であった。また内視鏡のようなものを使って手術を行うことで、術後の回復を早める関節鏡手術という技術があるようだが、肩鎖関節脱臼の治療例は僕の調べた限り未だ十分な数がないようだ。

2008年11月4日火曜日

話題の保湿成分

 最近、化粧品で話題の、保湿成分「水溶性プロテオ・グルカン」とはどのような物質だろうか?また、「ヒアルロン酸」よりも保湿能力が高いと言われているそうだが本当だろうか?以下は、あるエステシャンへの回答である。


 ネットで調べた限り、ここでいう「水溶性プロテオ・グルカン」は、ヒアルロン酸とタンパク質が結合した物質だと思います。ヒアルロン酸は、澱粉に似た構造の物質なので、水に溶かすと糊のようになります。このヒアルロン酸にタンパク質を結合させると、ヒアルロン酸由来の部分で水含みつつ、タンパク質の部分が強い骨格構造を作るので、「丈夫なプリン」(笑)のような物質を作ることがが出来ると思われます。おそらく、糊状の物質よりもプリンのような物質の方が保湿力が高いのではないでしょうか?この「丈夫なプリン」は、肌のコラーゲンの間に詰まっていて、保湿などの役割を果たしているそうです。 化粧品に入っている「水溶性プロテオ・グルカン」が、肌に含まれる「水溶性プロテオ・グルカン」と同じように、ちゃんと「丈夫なプリン」のような状態になっているのか、また「丈夫なプリン」を肌の上から塗った場合にどの程度保湿効果が得られるのかは、僕には分かりません。

2008年10月26日日曜日

ミラノ1時間+半日間の旅

 先月トリノの学会へ参加した際、ミラノを観光した。旅費を節約するために、大阪からミラノまでの航空券を買い、ミラノ‐トリノ間は列車で移動した。乗り継ぎの際に往路1時間、復路半日間ミラノで過ごすことが出来た。


往路


 早朝にマルペンサ空港へ到着した。預けた荷物の回収に1時間位かかる。電車の乗車券を買おうとすると、ミラノ中央駅へは行かないという。仕方がないので、シャトルバスへ乗る。通勤ラッシュに巻き込まれたためか、80分くらいかかった。後で分かったことだが、カドルナという駅に着くので、中央駅に行くには地下鉄へ乗り換えなくてはならないそうだ。


 駅にスーツケースを預け終えた頃には、11時を過ぎていた。12:15分のトリノ行きへ乗らなくてはならなかったが、意を決してドォーモ寺院へ向う。地下鉄で15分程度、地上へ出ると石畳の広場だった。カフェに座って、アコーディオンを聞きながら半日位眺めていたかったが、前方にそびえる王冠のような建物に直行した。目的は屋根である。中に入ると、屋根へは行けないと言われたので、工事中のガレリアを横目で見ながら裏に回る。セキュリティーゲートを通ってから、らせん階段を5階位の高さまでひたすら上り、軒先を5分程度歩くと、"Lonely Plant Italy"の表紙と同じ光景が目に飛び込んできた。棟に腰かけて、呼吸を整え、イタリアに来たことを実感してから、エレベータで降りて、地下鉄に飛び乗る。中央駅でスーツケースを回収し、正しいプラットフォームにたどり着いたのは、12:12であった。


復路


 学会最終日、14:05の列車でトリノ北駅を発つ。15:45にミラノ中央駅へ到着。予約したホテルは「駅前」のはずだが、新宿駅くらいあるため、見つからない。ホテルへ電話し、近くの警官に直接話してもらって、案内を請うたが、その警官が出鱈目なことを言う。結局、駅の周りを3/4周する羽目になった。部屋で一息つくとすでに17:30を過ぎていたので、タクシーでサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会へ向かう。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」鑑賞ツアーを18:15に予約しておいたのだ。しかし、急ぎすぎて30分近く前についてしまう。


 「最後の晩餐」の鑑賞は、完全予約制である。僕は、1か月ほど前に予約を試みたが既に満員だったので、予約代行業者に団体予約を依頼したが満員だったので、ガイド付きの鑑賞ツアーに申し込んだ。30分のツアーだが、絵の前に立てるのは15分間である。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の建物は、改修工事によって、ゴシック様式とルネッサンス様式が入り混じっている。内装至っては前半分と後ろ半分がまったく異なる。「最後の晩餐」自体も、通常壁画に使われるフレスコという漆喰に顔料を混ぜる技法ではなく、テンペラという卵の黄身で作った水彩絵の具を用いて描かれている。しかも、「最後の晩餐」が描かれている部屋は、元来修道院の食堂であった。そのため、数年で劣化が始まり、後世の修復家達のによって原形を留めないまでに「修復」された。原画が失われた後は、壁画の一部を切り抜いて食堂と厨房の間の通路が作られ、食堂はやがて馬小屋として使われ、第2次世界大戦の空襲によって半壊して、2年間(?)露天にさらされた。しかし、ピニン・ブランビッラという修復家が20年以上かけて汚れや後世の加筆を取り除き、レオナルド・ダ・ヴィンチの原画が復元された。まとめると、「最後の晩餐」は滅茶苦茶な建物に、滅茶苦茶な技法で描かれ、滅茶苦茶な扱いを受けてきた。現在は、クリーンルームのような環境で保存されている。入口は2重扉で、第1の扉が閉まるとエアーシャワー出て見学者から粉塵を取り除く。第2の扉は、前のグループが出て行くまで開かない。「最後の晩餐」は、今にも消え入りそうであった。フレスコ技法で描かれともに戦火をかいくぐったジョバンニ・ドナート・ディ・モントルファーノの『キリストの磔刑』(1495)と比較すると耐久性の違いが歴然としている。僕には普通の絵に見えたが、キリストと12使徒をそれぞれ個性をもった「普通の人間」として描いたことは、画期的なことであった。


 ツアーの後、丁度ミサが始まったところだったので、一番後ろに座った。参加者に、世界遺産で神に祈るといった気負いは感じられず、仕事の合間にちょっと町医者へ来たといった雰囲気である。説教を聞き、聖歌を歌い、昆虫網のようなものに小銭を放り込み、聖体を受けると、話が終わらない内に帰って行った。


 タクシーでナヴィリオ運河へ向かう。今ミラノで最も話題の場所らしい。"Lonely Planet Italy"にコラムが載っていたEl Brellinで晩御飯を食べる。旅行者用定食があり、廉価に名物料理が食べられた。アイスクリームを片手に運河沿いを散歩してから、丁度やってきた中央駅行きの路面電車に飛び乗り、熟睡する。


 部屋でシャワーを浴びようとすると、お湯が出なかった。フロントと掛け合うと、満室だという。仕方がないので、一番近い宿へで移動した。料金が安くなったことが不幸中の幸いであった。

2008年10月25日土曜日

ライアン・エアーは安いか?

 もう1か月以上前になるが、トリノの学会に参加した際、ライアン・エアーを利用した。学会終了後、ドイツの研究所を訪問するためにミラノフランクフルト間を往復したのだ。朝日に照らされたアルプス山脈は美しかった。

 ライアン・エアーはイギリスの格安航空会社だ。どのぐらい安いかというと、フランクフルト→ミラノ片道は預ける荷物がなければ、燃料費込で35ユーロ(運賃0ユーロ)であった。素晴らしい価格だが、いざ利用してみると、いくつかの落とし穴にはまったので報告する。

発着時刻

 少なくともミラノ‐フランクフルト間は早朝・深夜しかなかった。僕は早朝便(7・8時代)を利用したが、非人間的な時間に宿を出るか、ライアン・エアーが経営するホテルに泊まり、空港で朝食をとる羽目になった。

場所

 ミラノのオリオ・アル・セリオ空港は、格安航空会社専用で、普通の国際便(笑)が発着するマルペンサ空港へ直行する公共交通手段がないため、両空港間の移動には2時間半程度かかった。但し、市街地からの距離は両空港ともシャトルバスで1時間程度である。フランクフルトのハーン空港は、ライアン・エアー専用で、フランクフルト国際空港が市街地から地下鉄で15分なのに対し、1時間に1本程度のシャトルバスで1時間程度かかる。

手荷物重量制限

 預入荷物が有料(10ユーロ)なのは仕方がないかもしれないが、重量制限が日本‐ヨーロッパ間のエコノミーより5kg少ない15kgである。重量超過分は、1kgごとに15ユーロとられる。僕は、ミラノのホテルへトランクを預けようとしたが、拒否された。ミラノ中央駅と空港の荷物預かり所も当たったがまだ空いておらず、やむなく超過料金を支払ってフランクフルトまで持っていった。

サービス

 僕は気にならなかったが、座席指定がないので、良い席に座りたければ搭乗ゲートで並ばなくてはならない。また、機内食は飲み物も含めて有料である。さらに、離陸までラジオのCMのようなものが機内に放送される。

 以上から移動にある程度の快適さを求めると、シャトルバスやホテル、朝食なども含めた最終的にライアン・エアーに対して支払う金額は、ルフトハンザなどと大して変わらないだろう。それどころか、早起きや空港までの移動時間と労力が高く評価されるような、目的や身分の旅行者にとっては、割高になるのではないか?ライアン・エアーは、機内持ち込みサイズのバックパック1つしか持たず、空港のベンチで夜を明かすこともいとわないような旅行者に限って、利用価値があるのかもしれない。

2008年8月30日土曜日

「自由の女神」へ行くべきか?


 ニューヨーク2日目、自由の女神があるリバティー島へ行った。アメリカの正面玄関に立ったように感じた。19世紀、ニューヨークはアメリカ最大の移民上陸港であった。彼らが最初に見たアメリカは、海から見たニューヨークだろう。マンハッタン島の高層ビル群があり、自由の女神もあっただろう。アメリカの顔だっただけあって、とてもカッコいい。

 自由の女神の観光というと、陳腐で気が引ける。実際、あの巨大な像を拝むだけなら、リバティー島へ行く意義は見出せなかっただろう。しかし、

○街を海から眺めること
○その眺めの歴史的背景を知ること

は、ニューヨーク観光で第1に薦めたい。確かに、クルージングはいろいろな会社がやっているし、アメリカ移民の歴史は本を読めば分かるので、わざわざ1時間並んでチケットを買い、さらに1時間並んでフェリーに乗ってまでリバティー島に上陸する必要はない(予約すればよかった)。それでも、リバティー島の芝生に寝転んで、ピザを齧り、カモメと戯れながら眺めると、マンハッタン島の街並みもまた格別である。さらに、フェリーは移民管理局があったエリス島にも立ち寄る。今は博物館になっていて、移民の歴史を知ることが出来る。だから、「自由の女神」観光をお薦めする。

備考
 平日10時頃にフェリーポートに行ったところ、2時間待ちだった。予約するか、ニュージャージー州発のフェリーを使った方がよいと思う。 お弁当と敷物を持っていくと、上のようなところで食べられる。レストランは両島にあるが、混んでいた。

 

2008年8月29日金曜日

ニューヨークに着いた夜

 学会最終日、会場を出たその足でニューヨークに向かった。アムトラックの駅(30th Street)に向かう途中、地下鉄のトークンを20ドル分買ってしまい、駅員さんに売ってもらっていたので(笑)、予定より1時間ほど遅れた。1時間半程度でペンシルバニア駅に到着。構内の公衆電話に、トークン販売で得た大量の25セント硬貨を投入し、ロンリープラネットを見ながら宿をとる。ドミトリーはどこも満室だったので、最安のシングルにした。夜8時を過ぎている。ニューヨークは治安が悪いと聞いていたので、尾行されていないか確かめ、ガイドブックをしまって街へ出る。しかし服装で、旅行者であることが一目瞭然であった。


 夜10時、宿周辺を散策するつもりで部屋を出た。ニューヨーカーにならってTシャツに半ズボン。ポケットには、$30足らずの現金とクレジットカード、デジカメのみである。ニューヨークは徒歩で周れる街であった。明るい方へ向って歩くと、タイムズスクエアに出た。土産物屋やカフェ、ブティックがまだ開いていて、通りは観光客で賑わっている。皆ぼくよりきちんとした格好をしている(笑)。タイや中国の地方都市で見るような3輪自転車が、客待ちをしている。二階建てバスの観光ツアーに飛び入り参加した。マディソンスクエア、ワシントンスクエア、SOHO、リトルイタリー、チャイナタウン、ブルックリンを100分位で周ってくれた。

 バスを降りて、宿へ向かう。人通りがない。明かりがともっているのは、雑貨屋とトルコ料理店だけだ。朝食にケバブを買う。熱い抱擁を交わしていたカップルと笑顔を交わして、宿に入る。

2008年8月28日木曜日

フィラデルフィアの安宿

 先日、フィラデルフィアで学会に出席した際、手頃(1泊1万円以下)な宿が見つからずに困った。もちろん出席者で埋まっていたのだろうが、Lonely Planet USAによると、フィラデルフィアにはそもそも安宿が少ない。少なくとも車が無しでアクセス出来る場所には、少ない。僕が探した限り、中心街(ペンシルバニア大学を含む)にあって1泊1万円以下の個室があるのは、以下の3軒だけである。

Apple Hostels


ucityhostel

International House


どこも満室だったので、現地で散々探した挙句、空港の近くに落ち着いた。

Microtel
Philadelphia Airport

 オンライン予約すると現在のレートで1万円以下であるが(笑)、飛び込みで泊まるともっと高くなる。空港から電車(SEPTA, R1)で1駅(Eastwick)、徒歩5分である。市街までは、R1で20分くらいかかる。但し、電車は30分に1本である。片道$5だが、1週間定期券もある。

 ちなみに、このホテルからは24時間、30分毎に空港へ送迎バスが無料で出ている。僕は午前7:30出発だったので、とても役に立った。